地蔵院を御紹介いたします。
県道52号線から東へ入ると、まず山門(西門)が見えてきます。そのまま真っ直ぐ進むと南門、駐車場、霊苑へと繋がっています。
六道輪廻の間にはともなう人もなかりけり
ひとり生まれひとり死す生死の道こそかなしけれ
思えば、みんな一人で生まれ、誰もが一人で死んでゆかねばなりません。しかし、自分自身が消える日、永遠にともなってくれるものがあればどれだけ安心できるかしれません。それは一体何でしょうか?それは物ではなく心です。永遠にともない、切れるのは心であると知った時、自ら宗教心が目覚めてくるのです。あなたのいとしい人達も、お地蔵様に守られて、決して一人ではないのですよ。六地蔵様はお墓の入口で亡くなった人達をいつまでも見守り続けています。
子を抱いていると、ゆく末のことが案じられる
良い人に巡り会ってくれとおのずから涙がにじんでくる…
善きにつけ悪しきにつけ、子供の一挙手一投足が親の涙腺を刺激します。そしてその涙の一滴には、生命の重さを知っている者のみの想いが宿っています。この涙の枯れない限りいのちは輝き続けるのです。
お地蔵様はいつも温かいお心をもって、水子やかわいい子供や誰からも面倒を見てもらえなかった人々をあの世においてかばい合い、いたわっておられます。どうぞ心の地蔵尊
(まもり地蔵・さずけ地蔵・かなえ地蔵)に、あなたの真心こもったお花やお線香等を供え、手を合わせて拝んで下さい。きっとあなたの願いが届くことでしょう。
その他にも、寺院内のあちらこちらに様々な表情の地蔵尊があります。訪れた際には是非探してみてください。
夜明けの身を切るような寒さにじっと堪えながら春を待ったあの日。春の訪れとともに艶麗な花を開かせ、わが世の春を謳歌した日々。
咲き疲れ、花びらの重みに堪えかねて、散らねばならなかった時の悲しさ。掃き捨てられた時の口惜しさ・・・。
すべての営みを終え、死さえも再び訪れることがなくなった枯木になってみると、そのすべてが美しく懐かしい絵巻物として思い起こされる。
遠く離れてみるということはいい事だ。長い時間という洗礼にあうこともいい事だ。
すべてが美しく、いとおしいものに思えてくる。
憎らしかったことも死にたいほどに苦しかったことさえも。
在りし日の背を洗うごと墓洗う
あなたは、何故お墓参りをするのですか?
昔からの決まりだから、すると気持ちが良いから、さまざまな形があっても、石を積み重ねたお墓に水をかけようと花をあげようと、何の返事もしてはくれません。
それでも、おまいりをしないではいられない、すると気持ちが良いのは、石を通して目には見えない何者かの働きかけがあるからなのでしょう。
それは御先祖様でもあり、亡くなった恋しい人でもあり、忘れられない子供の霊であるかもしれません。
そういうものを通じて、人間の生命の流れに敬礼するのがお墓まいりです。冷たい石からゆるぎ出る生命の泉は、お墓まいりをすることによって、はじめて味わえるのです。
まず味わってもう一度この質問を考えてみましょう。